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人と話すのが正直かなり苦手で、特に社交辞令というものは本当に苦手で、その必要性は分からないわけではないが、それを考えたくもない程に嫌いである。なんというか、全く話せないわけではないし、形だけの必要性(無味乾燥じみたような人付き合いのため、といったような理由)があれば、スイッチを入れてなんとか話すことができるがこれがかなりエネルギーがいるもので、本当にしんどい。かといってスイッチをオフにして一人黙っているのも、しんどい。こういうとき、一匹狼で誰の目を気にせず自分の世界に入り込めたらまだ自分にとっては楽だったのかもしれないが、そうはいかず、正直すごく面倒くさい人間だなと思う。
ある程度時間が経つと、少ないメンバー間で徐々に仲良くなっていき、一部の人とはかなり濃くなるが、興味を持てるのは本当に少人数で、それこそ、初対面の興味もないような人にいろいろなことを話したりする場面は、非常にエネルギーを使う。コミュニケーション障害という概念が、いったいどこまで正確に人のコミュニケーションについて表すことができているかは知らないが、しっかりとした障害の部類があるのであれば、診断を受けてしかるべき対応を受けた方が身のためなのではないかという他力本願な気持ちにいるのが最近の自分の傾向である。社会に対しては申し訳なく思うことも無いし、自分でよくなろうとも、うわべだけは思うが、やはり面倒なものは面倒、嫌いなものは嫌いで。どうもうまくいかないことが常である。
それでまあ、こんなことを書いている今日のような日は、まあ御察しの通り気持ちもかなりブルーなので、ひとりでいるとすごく落ち着くのだけれど。たまたま用事があって東京に来ていた今日は、天気が雨で、夕方のそこそこ大事な用事が終わって、小雨の中、駅前の歩道橋を渡ろうとした。その踊り場で、雨の日の夕暮れの、藍色の空気に包まれた美しい街灯りをみた。こういう日はいつも以上に、何か「美しい」と感じる閾値がとても低くなっているかのようで、五感の知覚を感覚器官から経て、脳内の隅々までたっぷりその雨の日の藍色の街の美しさが心に染みた。なんて美しいんだろうと思った。少し寒い時に香り高い深煎りのコーヒーを飲んだときのような染み渡り方だった。普通のコーヒーが、こんなに美味しかったか!というように染み渡るときのような。夕暮れのオフィスビルのランダムに着く灯りが、小さなコンクリートの中を人工的に流れる川の水面に反射して、下まで灯りを垂直方向に筆で流したかのようだった。航空障害灯の赤も、まるで濃い絵の具を、チューブからそのまま出したかのような勢いで原色のまま世界に存在して、まるで絵具の素材感を活かしたような、前衛的な絵のようなのである。
正直にいうと、僕は人に興味が持てないし、全くというわけではないけど、興味のないことが大半だし、周りの人よりも興味が持てていないなと思っている。そして、そこらへんにいる人よりかは、ずーっとこういう街の風景の方が魅力的だと、今日みたいに美しい街の景色を見るたびに思う。
今日話さなければいけなかったよくわからない人とか、人の本当に表面的なものばかり触れて、興味も持てないような状況に比べれば、オフィスビルの光は、余程綺麗だ。それらの光は表面的なもので、最も、中の情報や人のことなんて知らないし、興味も持てていないのにも関わらず、人の表面的な表情や感情なんかよりもよっぽど綺麗だと思う。
綺麗というか、綺麗というのは、その姿形に興味を持てるという意味も含んでいる。ずっと見ていたい。記憶に収めていたいなんて思える。そういう類の「美しい」である。
人間ももちろん、全くそういう瞬間がないかといえば嘘だけど、同じような数だけ、並ぶビル・並ぶ人間の群があったのなら、間違いなく並ぶビルを見ている方が好きだし、落ち着くものだ。
繰り返しになるが、端的にいえば、人に興味を持てていない、のだと思う。
僕は何かデータを介して、例えば大多数の人を、写真を介して、液晶で見たりとか、そういう風にした方がとても魅力的に見えたりする、ように思う。
だが奇跡的に、こういう冷酷な自分にもとても美しく見えたり、魅力的に見えたり、そういう人がいる。
話の内容がどうこうとかではなく、例えば、目の中に光が入ったときの、眼球の光沢や、目をつぶったときの、わずかな隙間から見える黒目の輝きとか、そう、私は目を見ているのが好きなのだと思う。好きな人の目を見るのが好きだ。
好きに思える人の目は、まるで街灯りを見ているときのように落ち着くことがある。しかし街灯りと大きく違うのは、ビルの中身なんて何も知らないのとは相反するかのように、その人の中身は、自分が思う限りでは、ある程度深いところまで知っているという点にある。
人の見た目は、あくまで私が、美しいと思う分には、その見た目だけで十分のように思うのだ。中身がどうであれ、中身というのは性格や生活歴とか、そういうのがどうであれ、美しいものは美しい、そこに変わりはない。
これまで私は、人にしろ無機物にしろ、中身と外見の両方を考えていた。そしてそれは恥ずかしながら外見以上に深く見ているという優越感を得たかったためだ。
しかしこの歳になって、私はただ美しいものを求めているのみなのだと思ったのだ。自分が美しいと思えるものを、この手で掴みたい、ものにしたいという欲望のみが、しっかりと心の中にあるのだと思った。
繰り返しになるがその「美しさ」とは、本当に外見のみの美しさに対してだ。中身に対する視点というのは、本当に後からついてくるものなのだと思った。そして全く別々に考えている場合が多くあるのだということも、この歳になってようやく自分を省みることができた。
人にしても、風景にしても、物にしても、やはり美しいものはずっと見ていたいのだ。
しかしそのようなことを日々感じていると、そのうち何故美しいと感じるのか?という問いになってくる。そしてその問いに対して、私は大概、視覚的なパターンを観察し、系統化しようとさせる。
しかし仮に系統立てて自分が感じる美しさについてその傾向を説明できるようになったとしても「美しい」と感じるその感動そのものが、理性から来ることはないように思う。
「美しい」という感覚は、本能から来ている。あくまで自分の場合は、だけど。「美しい」と、直感的に思う。理屈もなしに。美しさ、とは、自分のその本能的な瞬間的な感情そのものにある。すごく尊いものである。
勿論、科学的にそのような美しいと感じる機序を説明立てられることも、きっとあるかとは思うが、しかし本当にすごいと思うのは、私が数少ないながらもときたまに感じることのある、「生命に対しての美しさ」である。
建築物や、絵画などは、あくまで人工物で、ある程度誰かの「美しい」が加えられて成り立っている節があるとは思うが、人の表情やパーツというのは、本当に数多の偶然から成り立っているものである。そのように偶然の成り行きでできたものに対して、偶然の成り行きでできた自分が、「美しい」と思えるのは、もはや神の遊びとしか思えない。