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IIDABASHI
もともと写真を撮るときはカラーで撮ってカラーで現像するのが常だったはずなのに、最近しっくりこない、というかそれらの過程に向き合うのが少し嫌になることが多くて写真が少し嫌になりそうなことがあって、心機一転みたいな感じで、カラーモードをモノトーンにして、三脚も持たずに外に出てみたことがあった。
私の使っているカメラはSIGMAの独特なやつで、日中であれば良いものの室内や夕暮れ以降夜間は三脚なしでは通常の設定では使い物にならない機体だった。
ただ、三脚なしで撮る方法が一つだけあって、それは露出を思い切り低くして、更に感度を上げることだった。
もちろんシグマのカメラはこんなことをすると大変なことになるというか、カラー現像だと作品にならない、見ていられないものばかりできる。
ノイズまみれで、不自然なザラザラ度も増してしまう。
しかし、ノイズや不自然な色もモノトーンだったら和らぐような気がして、その日は敢えて思い切り暗くして感度を上げて、いつもより感覚的に撮ってみようと思ったのだ。
以前そうした時に上手くいった、そんな記憶があったような気もする。
撮り方は、普通の一眼レフを使う感じで、バシャバシャと直感で撮るような感じで、だ。良い一眼レフを持ったときの連続で何枚も撮るような感じ。
それを初めてずっとやろうと決めた日は東京じゃなくて、家族の関係で用事があって帰省しなければいけないときで(その用事に対しては全く気が向かなかったが)なんとなくモノトーンで撮ろう!なんて思ってカメラを担いで東北に向かった。
案の定、地元に着くといつも通りの鬱々とした気分になり、更に嫌な出来事も重なって俺は逃げるようにして音楽を聴いたり地元の新しい場所に行ったりして、嫌な記憶から逃避していた。
だがカメラだけはだいたい手放さずに、時々気になったときに撮っていた。
鬱々とした感覚も、カメラを向けて仕舞えば、それはカメラの中の世界になる、まるで作られた虚像のようで、現実をカメラを通して見ることは、自分がフィルターの内側にいるみたいで幾分か心が楽だった。
東京に帰ってきてRAW画像を専用アプリで現像しようとした。
しようと思ったけど、なんだかモノトーンは乗り気になれずに少し放置した。
そのうち嫌な電話があった。家族としてどうしても避けられない、どうしようもない問題だったのだが、そのあと何故だか地元で撮ったものを編集したくなって、Macを開いていた。
自分でも不気味に思うくらい、変わってしまったのではないか、というくらい、モノトーンがとても心地よく見えた。ハイコントラストで露出低めシャドウ強めの真っ暗な地元の写真が、何故だかすごく落ち着いて見えた。それは記憶から曖昧な風景を取り出してくるときの、ぼんやりとした感覚にも少し似ていたような気がした。
私は記憶を思い出すときは色を見ているのではなく、光とそれから作り出される影を思い出そうとしているのだな、とも思った。
人の顔を思うとき、私が思うのはその人の顔のパーツの色ではなく、目の位置や形大きさといったその質感であるとか影であるとかで、モノトーンでの現像はそういう点でとても腑に落ちた。
最近昔のことを思い出すと思い出がいっぱいになって苦しくなって辛くなることが多くて、でもモノトーンを通して見る世界は純粋に落ち着いて見ることができる、ような気がしている。
もう終電がないかと思って焦った。新宿駅の中央線快速のホームの階段で。乗り換え検索の画面では確かに中央線で帰れるはずなのに、快速電車の止まるオレンジのホームの電光掲示板には 営業は終了 の文字が流れている。もういよいよ始発帰りをやる時が来たのかとも一瞬思ったが、ちょっと怖くなって、念のためもう一度、検索結果の画面をよく見ると、確かに電車はあって、目的駅までのルートに「中央線 各駅停車」と書いてあった。もしかしたらと思い各駅停車の黄色の電車が止まるホームに行くと、相変わらずの人だかりで、普通に高尾行きや立川行きの電車がくることが電光掲示板に示されていた。すると、いつものオレンジの列車が黄色のラインのホームに滑り込んできた。僕はとても驚いた。オレンジはいつも快速だとてっきり思ってしまっていたので。オレンジがゆっくりの時もあるのだな、と思った。
しかしそれはさておき、良かった、帰れる、とも思った。新宿でひとりぼっちは、東京に慣れてきてると思ってた自分にとっても、ちょっと心細いことだった、そんな春休みの中央線でのこと。あの頃はまだ、東京に来てしまったなぁ〜なんて思っていた。中央線の終電はめちゃくちゃ遅いしなんなら始発まで待ったってなんとかなるし(ちょっと勇気いるけど)、夜が長くて、街は眠らないな、やっぱり、なんて思っていた。いや、街はどこも眠らないんだけど、東京は色々なことが24hだったり夜遅かったりしてそれが夜型の自分には本当に助かった。おかげで春はどっぷり夜型になってしまったが。
もう桜も散って多くの人には見向きもされない新緑を歩道橋の横から時々立ち止まって僕は眺めている。朝の通勤は、快速電車が遅延して快速なのに全然快くないし、最悪、各駅停車の方が早いこともある。勿論そうでもないこともある。とにかく高確率で大体遅延する。
飛ばしてくれるのはオレンジ、ゆっくり行くなら黄色、いつも単純にそうとは限らないのだなと、毎朝止まる中央線の駅で思いながら、満員電車を何度も見送って4月が過ぎていったのだった。
今、僕は何故だか東京にいて、それは働いているからなのだけど、働いている以外ではなんだかまだ不思議な気持ちがあって、東京は東京なのだけど、なんだかまだまだ「東京にいる」という気持ちは収まりそうにない。正直人混みは苦手だし、満員電車は嫌だし、いつも始発を狙って滑り込んでいる。それならどうして東京なのか、それ以外の手段はなかったのか、とすら時々思うこともあるが、違う、もともと東京が好きだったのは俺だったのだ。朝や昼の東京にいると、そんなことを忘れそうになってしまう。働いているからというのもあるのかもしれないけれども。しかし、東京にいるという気はする。朝夕ラッシュの中にいて、他の路線の遅延のお知らせを見ると、ああメガロポリスだなと思う。夕方歩道橋から遠くのビル群を見るとそれがたいそう美しくてやっぱり東京にいるな、と思う。けれど、その「東京にいるな」は、なんだか「東京に住んでいるな」の「東京にいるな」ではないのだ。なんだか、住んでいる気分ではない。ちゃんと住所もあるし自宅があるけれど、なんだか、住んでいるという実感がないのだ。そしてこれは決して気分が悪いものではない。住んでいて、実際楽しいことも多いし、電車に乗るのは好きだ。けれど、なんだろうな、この不思議な感じ。住んでいるんだけど、住んでない。ふわふわしてるような感じ。そういう風に時々思ったり思わなかったりして、最近はそんなこと思うことも少なくなってきたが。
でもやっぱり、都市の中にいるという感じが常にどこかに少なからずあるのだ。上を見上げると航空障害灯だし、街の中に電車の音が鳴り響いて、夕暮れはなんだか未来を見てるようで、これは僕が子供の頃見たかった東京なのかもしれないな、とも思えるし、いやでも大したことないのではないか、という気分にもなる。
こうしているうちに朝が近づいて、時間や命を都市の中で消費していることを思うと少しだけ怖くなる。もっと色々なところに行きたいなと思って、でもそれはまだ僕の知らない東京や東京近郊をイメージしてるに過ぎないのだ。私は都市に依存しているし、本当に感謝しているし、嫌なところが全くないといったら嘘になるけど、でもやっぱりこんなにも広がっている街の中の、誰も知らないようなたった一つの明かりの中で生活しているのが、まるで宇宙の中の小さな小さな星に1人でいるかのようで、なんだかすごく心地よく感じることもある。高校の頃そんなことをよく考えていたけど、どうやらそれは現実になったようで、でも、なんだか、違うな、いやこれだったのかなと思いながら、春はもう終わりに近づいて、僕はまた夜を消費して、眠気とともに朝を迎えて、あっという間に死んでしまうのではないか、と思う。
京都を離れることになった。
あんなに早く過ぎ去ってほしいと思った時間も、今となっては惜しいほどのスピードで手の中からこぼれ落ちていく。
眠い中目を開けるのが辛くて、敢えて小路を通った、何も感動しなかった、出演者のいない映画のセットのようなあの夏の古い町並みも、今となっては時間が過ぎゆく中で、何もかも変わってしまうかのように、変化の途中に自分が流れていることを感じる。
寒い夜の静かな川端通から見る、鴨川がただの川に見えるようになって、元々何も感動できないような自分にとって、川沿いの道を歩くのはどこか憂鬱で、しかし皆が持っている豊富な感性がとても羨ましく思ってばかりだった。
京都に行くということが決まった時に、関西をめぐるぞと張り切っていたエネルギーも、来て早々夜と酒に潰されてしまって、その代わり、暑い暑い日の、缶ビールが鼻腔と喉を身体を突き刺すような刺激に嫌なほどの快感を覚え、私はそういう消費物に依存ばかりしていた。
何度も何度も京都を撮ろうと思ったけど、実際に実行に移せたのは1割にも満たない回数ほどだった。写真なんて、毎回撮ろうとしていたら欲と疲労に押しつぶされそうになって大変だと思う。実際、カメラを持っていないことを後悔するよりも、今見ている景色そのものを、ただそのままに好きになれたらどれだけいいかと思うことの方が多かった。
あんなに嫌いだった京都タワーが今ではとても恋しい。南向きのベランダから蝋燭の火が優しく灯っているように、大した光量でもないのに、私の視界は常に望遠レンズを欲していた。近くに行けば、大きいのに恐怖を感じないその姿に、何だかとても安心した。
世界に懐かしさも何もない。ただ、西日の傾いた時に真っ赤な太陽に照らされる京都の街は、もう二度と戻ってこない今を相当なスピードで消費してるようで怖くて泣きそうになったこともあった。
河原の真ん中にある石で深夜に川の上で橋を見ていたらずっと下った先の橋の車のライトまで川に反射して、こういう美しさを手の中で何とか残したいと思っても何も残すことができなかったのが今となっては悔やまれる。
京都は京都なのだ。
どこにいっても同じわけではないが、しかし特別に何か異なるわけではない。その人次第だけども、とりあえずこの自分の感性で知らない街を見られたことは、少しずつ心の中で溶けて消えていくのかもな、と思う。それが悲しいと思うまでは、もう少し時間がかかりそう、というくらい、まだ京都を離れる実感がないのだった。もう2週間後にはこの街からいなくなる。残りをどう過ごそうか、やや酸化したコーヒー豆を電動ミルで挽きながら思う。また先延ばしするんだろお前。
〆切に追われて作業をしていると、どうにもならない瞬間というのがやってきて、そいつに飲み込まれるともう、何もできなくなってしまう。
いつもなら寝るか考え事をするかの2択だが、その日の夜は珍しく京都に雪が降り積もって、俺は写真を撮りに行こうという気持ちになって、少しだけ作業をしてから、三脚とカメラを大きなリュックに詰め込むと、母にもらった厚いコートを着て外に出た。安い手袋の隙間から寒い空気が皮膚の中に入ってくるようで、外の寒さは東北出身の俺でもなかなかこたえるものだった。
でも外に出たら改めて本当に雪が降っているのだなと実感させられた。ふわふわの雪が空を舞っている。ゆっくりと落ちてきて、ゆっくりと自分のコートにくっついてくる。外は静かで、でも雪が降る景色がますますその静けさを増しているような気がする。空を見上げると黒い空に白い雪がいっぱいになっていた。街灯も信号機も、雪に光が包み込まれて、とても優しく見えた。
街が静かで、時が止まったかのようだった。
昔に戻ったかのようだった。
子供の頃を思い出した。
夜に、雪が降る寒さの中、母と買い物から帰ってきたこと。2人でいっぱいの荷物を持って、静かな街の中で、雪を踏む音だけが響いて、それが母と私の2人の音だけだったこと、その先に狭いけど温かいお家があって、そこで今夜も眠れる、安心があったこと。寒かったけど、ちっとも寒くなかった。一緒だったから。
俺は京都の空を見上げた。川端通の交差点で雪が舞っている。誰かが空から舞い散らせたかのように、果てしない、白が街を包み込んで、まるで俺までが包まれてるかのようで、視界が雪でいっぱいになって、
まるで昔に戻ってるかのようだった。
ここは2019年なのに。
もうなんだかずっとずっと前のことを凍えるような寒さの中で思い出したのだ、俺は。
そして、忘れていたのだ。雪の中で繰り返してきた時間の数々を。
最近、色々なことを忘れそうで、少し恐怖を感じることが増えた。
色々なことというのは、直近の記憶などではなく、これまで生きてきた中で形成されてきた、自分ならではの独特な感覚だ。
雪の中で、何を感じていたんだろうか。
雪の中で一緒に歩くってどんな感じだっけっか。
雪を踏む音はどんな音だったっけ。
寒そうな俺はなんて言葉を発しただろう。
寒がりの母は何を言っていただろう。
手を繋いだ母の手の形はどんなだっただろう。
母の声はどんなだっただろう。
こうして俺は大切な記憶や感覚を少しずつ失っていることに今年も気付く。
季節は記憶を思い出させてくれる、というよりも、何を忘れたかを思い出させてくれる、という点で、俺にとってはとても残酷なものだ。
けれど今こうして忘れたことを思い出していること自体、いつまでも抱きしめて大事にしていられたらなと思う。
もうどこにも保存ができないからだ。バックアップも取れない。言葉にもストレージにも保存できない。
この感覚や記憶はもう、私が私で守っていくしかないのだから。世界でここにしかないのだから。
だからなるべく、長く生きていようと思うのだ、最近は。
私が忘れたとしても、季節が気づかさせてくれるので。
今年も寒さで身体の底から未来を感じている。
人と話すのが正直かなり苦手で、特に社交辞令というものは本当に苦手で、その必要性は分からないわけではないが、それを考えたくもない程に嫌いである。なんというか、全く話せないわけではないし、形だけの必要性(無味乾燥じみたような人付き合いのため、といったような理由)があれば、スイッチを入れてなんとか話すことができるがこれがかなりエネルギーがいるもので、本当にしんどい。かといってスイッチをオフにして一人黙っているのも、しんどい。こういうとき、一匹狼で誰の目を気にせず自分の世界に入り込めたらまだ自分にとっては楽だったのかもしれないが、そうはいかず、正直すごく面倒くさい人間だなと思う。
ある程度時間が経つと、少ないメンバー間で徐々に仲良くなっていき、一部の人とはかなり濃くなるが、興味を持てるのは本当に少人数で、それこそ、初対面の興味もないような人にいろいろなことを話したりする場面は、非常にエネルギーを使う。コミュニケーション障害という概念が、いったいどこまで正確に人のコミュニケーションについて表すことができているかは知らないが、しっかりとした障害の部類があるのであれば、診断を受けてしかるべき対応を受けた方が身のためなのではないかという他力本願な気持ちにいるのが最近の自分の傾向である。社会に対しては申し訳なく思うことも無いし、自分でよくなろうとも、うわべだけは思うが、やはり面倒なものは面倒、嫌いなものは嫌いで。どうもうまくいかないことが常である。
それでまあ、こんなことを書いている今日のような日は、まあ御察しの通り気持ちもかなりブルーなので、ひとりでいるとすごく落ち着くのだけれど。たまたま用事があって東京に来ていた今日は、天気が雨で、夕方のそこそこ大事な用事が終わって、小雨の中、駅前の歩道橋を渡ろうとした。その踊り場で、雨の日の夕暮れの、藍色の空気に包まれた美しい街灯りをみた。こういう日はいつも以上に、何か「美しい」と感じる閾値がとても低くなっているかのようで、五感の知覚を感覚器官から経て、脳内の隅々までたっぷりその雨の日の藍色の街の美しさが心に染みた。なんて美しいんだろうと思った。少し寒い時に香り高い深煎りのコーヒーを飲んだときのような染み渡り方だった。普通のコーヒーが、こんなに美味しかったか!というように染み渡るときのような。夕暮れのオフィスビルのランダムに着く灯りが、小さなコンクリートの中を人工的に流れる川の水面に反射して、下まで灯りを垂直方向に筆で流したかのようだった。航空障害灯の赤も、まるで濃い絵の具を、チューブからそのまま出したかのような勢いで原色のまま世界に存在して、まるで絵具の素材感を活かしたような、前衛的な絵のようなのである。
正直にいうと、僕は人に興味が持てないし、全くというわけではないけど、興味のないことが大半だし、周りの人よりも興味が持てていないなと思っている。そして、そこらへんにいる人よりかは、ずーっとこういう街の風景の方が魅力的だと、今日みたいに美しい街の景色を見るたびに思う。
今日話さなければいけなかったよくわからない人とか、人の本当に表面的なものばかり触れて、興味も持てないような状況に比べれば、オフィスビルの光は、余程綺麗だ。それらの光は表面的なもので、最も、中の情報や人のことなんて知らないし、興味も持てていないのにも関わらず、人の表面的な表情や感情なんかよりもよっぽど綺麗だと思う。
綺麗というか、綺麗というのは、その姿形に興味を持てるという意味も含んでいる。ずっと見ていたい。記憶に収めていたいなんて思える。そういう類の「美しい」である。
人間ももちろん、全くそういう瞬間がないかといえば嘘だけど、同じような数だけ、並ぶビル・並ぶ人間の群があったのなら、間違いなく並ぶビルを見ている方が好きだし、落ち着くものだ。
繰り返しになるが、端的にいえば、人に興味を持てていない、のだと思う。
僕は何かデータを介して、例えば大多数の人を、写真を介して、液晶で見たりとか、そういう風にした方がとても魅力的に見えたりする、ように思う。
だが奇跡的に、こういう冷酷な自分にもとても美しく見えたり、魅力的に見えたり、そういう人がいる。
話の内容がどうこうとかではなく、例えば、目の中に光が入ったときの、眼球の光沢や、目をつぶったときの、わずかな隙間から見える黒目の輝きとか、そう、私は目を見ているのが好きなのだと思う。好きな人の目を見るのが好きだ。
好きに思える人の目は、まるで街灯りを見ているときのように落ち着くことがある。しかし街灯りと大きく違うのは、ビルの中身なんて何も知らないのとは相反するかのように、その人の中身は、自分が思う限りでは、ある程度深いところまで知っているという点にある。
人の見た目は、あくまで私が、美しいと思う分には、その見た目だけで十分のように思うのだ。中身がどうであれ、中身というのは性格や生活歴とか、そういうのがどうであれ、美しいものは美しい、そこに変わりはない。
これまで私は、人にしろ無機物にしろ、中身と外見の両方を考えていた。そしてそれは恥ずかしながら外見以上に深く見ているという優越感を得たかったためだ。
しかしこの歳になって、私はただ美しいものを求めているのみなのだと思ったのだ。自分が美しいと思えるものを、この手で掴みたい、ものにしたいという欲望のみが、しっかりと心の中にあるのだと思った。
繰り返しになるがその「美しさ」とは、本当に外見のみの美しさに対してだ。中身に対する視点というのは、本当に後からついてくるものなのだと思った。そして全く別々に考えている場合が多くあるのだということも、この歳になってようやく自分を省みることができた。
人にしても、風景にしても、物にしても、やはり美しいものはずっと見ていたいのだ。
しかしそのようなことを日々感じていると、そのうち何故美しいと感じるのか?という問いになってくる。そしてその問いに対して、私は大概、視覚的なパターンを観察し、系統化しようとさせる。
しかし仮に系統立てて自分が感じる美しさについてその傾向を説明できるようになったとしても「美しい」と感じるその感動そのものが、理性から来ることはないように思う。
「美しい」という感覚は、本能から来ている。あくまで自分の場合は、だけど。「美しい」と、直感的に思う。理屈もなしに。美しさ、とは、自分のその本能的な瞬間的な感情そのものにある。すごく尊いものである。
勿論、科学的にそのような美しいと感じる機序を説明立てられることも、きっとあるかとは思うが、しかし本当にすごいと思うのは、私が数少ないながらもときたまに感じることのある、「生命に対しての美しさ」である。
建築物や、絵画などは、あくまで人工物で、ある程度誰かの「美しい」が加えられて成り立っている節があるとは思うが、人の表情やパーツというのは、本当に数多の偶然から成り立っているものである。そのように偶然の成り行きでできたものに対して、偶然の成り行きでできた自分が、「美しい」と思えるのは、もはや神の遊びとしか思えない。